小説 玄関 晟陽
晟陽


余聞
一話
河津風祐は許しが欲しい。彼にとって「許し」とは「褒美」である。何かを代価に得るもの。だから、足元に侍る赦しを「褒美」なんて言ってしまう。
二話
河津風祐にとっては発電式なのはよろこばしい。
加工品、エネルギー、生きるためのものを供給されないと生きていけない軟弱者の充電式とは違う。
ちゃんと自分で作って生きられる。
河津風祐がおまえと呼ぶのは「尊厳を失った/弱者」の女だけ、護らなきゃいけない女だけ。
ぴかぴかの電球は太陽のメタファーだけど、女に太陽の代替品を重ねるのか、太陽を見るのか、だいぶちがうよね。
だから飛永怡陽は恥じた、美しいものであった己に地を這わせたこと。
男の頭の中にいる女は真っ白で、輪郭さえ消し飛んでしまうほどで、また一人になってしまったと錯覚してしまうような、恐怖の象徴でもある。けれど自分の手足が、髪の毛が、詳細に確認できるたびに安堵するのだ。光こそが女である。瞬い全てが女だ。男は自分の後ろに伸びる影にうっとりと口付ける。この影が、この闇が、女がそばにあることの証明なのだ。
色気、女っ気とか色情じゃない、愛嬌になるもの。醜い面に驚いて、ついで所作だとか、雰囲気だとか、目を惹くものになんだか絆されてしまって。瞳孔の小さな黒がぽつとある瞳だって慣れりゃ素敵。広い口をいっぱいにステーキ一枚ぺろりと平らげる、なんてやられちゃたまんないね、なかなかどうして可愛い男じゃないの、とか。愛嬌と転ずる魅力。
男は相応の物って概念を理解してる。だってお坊ちゃんだったし。綺麗なもの、高価なものは、見定める。値する生き物なのかと。並び立つように花開くものもあれば、貶めて対等にするものもある。男が手にしたものは全て、男の手中で死んだようにくすんだ。あんなにぴかぴかだったのに。だから自分の手のうちで輝く女が愛しい。どうか捨てないでくれって、それだけ。いつだって河津風祐は願うばかりなのだ。
まあ、くすまないのは当然で、女が河津風祐を丸ごと抱えているからさ。女は物持ち良くって愛情深いから、河津風祐のことだって、丁寧に磨いて死んでも愛してくれるよ。河津風祐が見定めた、この女が良いって。だからこれはハッピーエンド、必ずそうなる。思わず額に口付けを贈りたくなる女。
河津風祐にとって、飛永怡陽は太陽だから。願われる存在だから。飛輪なのだ、完結した一つのもの。それがどうして、ニンゲンごときに願わねばならんのかちっともわからん。求めることはあれど、願うことはない。飛永怡陽にはかなう。なんせ頭上の女なのだから。不埒な輩の振り上げた拳は、己の影に落ちるのだ。河津風祐は許さない。飛永怡陽という絶対の元では、常に従順であらねばならんのだ。
河津風祐は王様である。飛永怡陽のおかげで全てが存在して、全ては河津風祐に跪くのだ。
余聞
モチーフ/アトリビュート
ララバイのかわりにキャロルを。君にそっと寄り添うように共に在れたら。レイラはレディリリスモチーフなので、もちろん蛇だし、原初の裏切り者なのだ。平等を願って打ち砕かれた女。復讐の女。エリーはイヴではないし、ルシファーでもない、天使じゃない。ただの敬虔な、だからこそ神聖な女。短い髪の女。林檎よりも檸檬が好きな、そういう女。苺は純潔で誠実で無邪気なのに、聖母マリアに捧げるものなのに。スウィーティ・ストロベリーはホットでシットなスラットだし、誰かの都合の為の犠牲だ。薔薇と罌粟はリリスのもの。美しき薫り、妙なる接吻、和めある眠りの罠。
エリーはパルミフェーラなので、薔薇と罌粟の女なんですね。棘のない薔薇、聖母マリアの象徴。蝶は魂、棕櫚は勝利や殉教、罌粟は死。目隠しの天使と骸骨を背負う女。
