生涯最大の幸福

 私は地獄に堕ちた。死因は老衰、ぴんぴんころりの上等な人生だった。齢十八で付き合った男と結婚し、望み通りのキャリアを築き共働きながら子供も産んだ。ベビーシッターやハウスキーパー、その他ありとあらゆる手段を使って無理せず卒なく子育てに励み、つい先日には孫が成人した。真っ当な人生だ。法を遵守し倫理を重んじた、そういう人間だった。私は地獄に堕ちた。にっこり笑いながら私の一生を遡っていた天使が、ある一日の、偶然を切り取って表情を欠落させた。私はここにいる。マザーグースを暗唱できるようになった頃から聖歌隊に入った。毎週末は教会に通って、月に一度は告解をし、息子にも正しい言葉で聖書を読み聞かせられる大人になった。愛に溢れ、自立した健全な精神で、私はいま地獄にいる。目の前には首を絞めながらファックしてる火だるま二つ、全てのガラスが砕かれた街頭で首を括ってる男の死骸と、それをカラカラ笑いながらポラロイド越しに見つめる蛇の怪物。

「トラフィックジャム売ってるよお!」

「何味かしら」

「今はりんごあじ! 明日、あしたは苦いハニー! かえよ、買えよう、売ってやるからあ」

「お一ついただける?」

「売買契約! bye-bye 失せろよう!」

 拡声器で吠えている耳なしの女が、ぽん、とりんごを蹴飛ばした。弧を描いて落ちゆく先に煌びやかな馬車が通る。形の良い果実は車輪の下にすっぽりはまって役目を成した。見事に横転した車体に『畜生屋』と書かれたトラックが突っ込む。甲高い子供の悲鳴がクラクションのように響いていた。いつの間にか隣に来ていた蛇の怪物は舌なめずりしながら瞳孔を絞っている。ぶち、と生爪を剥がされた薬指が痛い。拡声器の女は救急車のサイレンを鳴らしながら遠ざかっていった。18金とダイヤモンドのいかにもな指輪よりも生爪一枚が代価となって、ようやく私は永遠の幸福から突き放されたのだと思い知った。

「苦いハニー、って何かしら」

「マム・ストロベリー。用があるのかい?」

 勢いを増す笑い声がうるさかった。その場を離れようと踵を返すと、視界の端に震える尻尾が見えて嫌になった。臆病者がわざわざ近づいてきては脅迫してくるなんて。ガス漏れのような声が鬱陶しい。言葉を返す気にはならなかった。今はただ、歌っていたかった。

 息を吸った。爆発したエンジンが有害物質を撒き散らしている。熱が肺を焦がしても、息を吸った。重心を真ん中に、軸を作って胸を張った。腕を広げて顎を引いて、見開いた視界いっぱいに映る悪逆無道の果てを消し飛ばすように、声を。

「ぁ、がぁ、ぐ、っぉえ」

「きひ、きゃ、莫迦だな! さては宗教家だろ、現実みろよみっともない」

 開けた口からぼたぼたとどす黒い血が滴る。声帯が焼け落ちるような痛みに喉を掻きむしって身悶えした。慈悲を、乞うことさえも赦されないのか、私が何をしたという。己のものとは思えぬ嗄れた悲鳴が耳を劈く。けれどこの痛みが、絶望が、偉大なる我が父の、我が愛しい御方の、存在の証明なのなら。

「ごぉ‥‥ふ、ぐぅ、こッ、ふく、は、こごに」

「はぁ? なに? お喋りもできないなら黙ってろよ」

「こう、ふくはッ、ここに! ここにある!」

「うげ、気狂いかよ」

 私の命一つ、安いものだ。